学長室の窓

学長コラム:結使

コラム No.13

もろもろの欲望にこだわり、
もろもろの欲望にしがみつくものは、
結使(=煩悩に操られていること)にある自己に
過ちを見ることはない。

『自説経』七、三

人間の抱く思い込みや先入観は、実に恐ろしい。そう人類に警告したのは、誰あろうインドのゴータマ・ブッダであった。とりわけ自己の欲求と都合から生まれた“常識”なるものは、いともたやすく偏見となって心に居座ってしまう。これが仏教のいう煩悩である。それゆえブッダは、煩悩そのものより、むしろ主観に潜む偏見の無自覚さを恐れた。仏教ではこの煩悩のことを「結使(けっし)」と呼んでいる。心を縛り付け、人を思い通りに操ろうとする恐ろしい影の主役である。

ひとたび「結使」に惹きつけられると、人は陶酔にも似た状態となる。そもそも主観そのものが自己の認識である限り、人は宿命的に思い込みから完全に逃れることなど出来ない。しかし、脱出不可能だからこそ、必死に“無自覚”に向かって自覚とは何かと問いかけることが重要になってくる。

かつてソクラテスが、「無知の知」を命がけで叫び続けたことも、まさにそうした趣旨だった。そしてまたブッダも、主観を陶酔させ麻痺させる「結使」を「三毒」とも呼び、生涯仏弟子たちに向かって警鐘を鳴らしたのだった。「三毒」とは、根本煩悩の「貪(とん)(ラーガ=強欲)、瞋(じん)、(ドヴェーシャ=嫉妬)癡(ち)(モーハ=慢心)という自覚のない習性である。
 
また一方でブッダが活躍した当時、激しい戦国時代であった歴史的背景を考えると、無自覚的な結使の行き着く先には、“恐ろしい結末”が待っていることを仏教は痛いほど知っていたのだ。なぜなら一方的かつ無反省な自己の正当化は、結果として他者を否定する道を歩むことになるからである。それが戦争という悲惨な末路である。
 
そこであらためて、冒頭に掲げた「小部」第三経『自説経』の一句をみてみよう。そこにはブッダ在世の様子が生き生きと描かれており、古(いにしえ)の出家者たちの感動を今に伝える。
当時の仏弟子たちは、日々托鉢のために街へと出向き、様々なことを見聞して帰ってきたようだ。そこで彼らは、さっそくブッダに報告するのだった。するとブッダはその都度、ことに寄せて教えを説いた。

コーサラ国のサーヴァッティーで托鉢を行ったときのこと。その日は何かの祝いごとがあったのか、街中が大いに賑わっていた。
中には酔っ払ったり、踊ったり、大声で喧嘩をしたり…。「人々は度を過ぎ、大いにもろもろの欲望に執着す」とも伝えている。

そんな異様な光景に仏弟子は、何かを感じとったのだろう。祇園精舎に帰るや否や、ブッダに熱く仔細を伝えたのだった。
するとブッダは静かに告げた。

「三毒の結使にある者は、決して自分自身の過失を自覚することはない…」

まるで天使のような顔をして近づいてくる魔物の「結使」は、人を惹きつけて魅了し、どこまでも陶酔させる。そこはもはや、善悪も正邪もまるごと飲み込んでしまう〈無意識の暗黒世界〉である。

ブッダは、その心地よい魔物の「結使」が、人の世には常に棲んでいることを警告したのだった。それは慈しみをもって仏弟子たちのために、そして迷える現代人のために…。

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