学長室の窓

学長コラム:道を得るは心か身か

コラム No.8

道を得ることは、
心をもって得るか、身をもって得るか

『正法眼蔵随聞記』二、二六

人生という旅には地図が欠かせない。しかし当てにしていた地図が、どれほど正しい情報を伝えていても、計画通りに目的地へ辿り着くとは限らない。これは仕方のないことだ。

判断を誤ることもあるだろうし、天候や現場の状況変化もあり得ることだ。ましてやガイドブックの類は、なおさら心得ておきたい。旅路の果てに目の当たりにした景色が、自己の想像とおおきく違っていたという経験は誰しもあるだろう。“仕込み”の予備知識とは、あくまでも参考資料に過ぎないものなのだ。

私は現代における様々な情報、例えば生成AIによる知見などで得た知識は、基本的に予備知識だと思っている。むろん予備知識といっても、決して当てにならないという意味ではなく、むしろ実生活を送るという旅路には、貴重な命綱になる頼もしい相棒だ。ある程度の正しい道しるべとなるには違いない。

ただ、ここで問題となるのは知識と経験の関係である。知識はどこまでも経験を経て現実に落とし込むことで初めて知恵となるものだ。だがしかし、知識はときに経験を駆逐するという危険性を現代人は肝に銘じなければならない。人は情報という知識を得た瞬間、理解という獲物を得たと納得し、満足して終わる場合が多いからだ。

そもそも何ごとも経験するという作業は、多くの手間と時間を要することでもある。新たな知識も見つからない経験は愚行だという声さえ耳にする。これは真に生きる意味を追求してきた人類にとっては、深刻な事態といえるだろう。

  「道を得ることは、心をもって得るか、身をもって得るか」
                    『正法眼蔵随聞記』二、二六

得道、つまり道において何ものかをつかむとは、いったい心をもって得るものなのか、身体をもって得るものなのか…。あるとき道元禅師は、弟子たちにそう語りかけたことがあった。もっとも、常識的には心をもって得道するのであろうが、そう考える“手抜きの輩”には「心をもって仏法を計校(けきょう)する間は、万劫(ばんごう)千生得べからず」と禅師は裁断する。

あるいは「身心一如にして得道する」との答えも考えられるが、こうした巧妙な表現も禅師は曖昧だとして退ける。むしろ問題を隠蔽しかねず、たちが悪い。そこで禅師はこう結語する。

「しかあれば、道を得ることは、まさしく身をもって得るなり。これに依って坐(禅)を専らにすべしと覚へて勧むるなり」

どうやら道の完成には身をもって経験するしかないようだ。そこを現代人は肝に銘じるべきである。

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