【シリーズ・東北】
親子の絆
昨年,20年ぶりに紙幣がモデルチェンジし,少しずつ見慣れてきているのではないでしょうか。モデルチェンジの最大の理由は偽造防止といわれておりますが,旧紙幣で偽造通貨を使用する事件が後を経たず,怒りが込み上げてくる今日この頃です。今後このような事件は起きてほしくないものです。
話を戻して,今回は新札のモデルとなった福島県出身の細菌学者,野口英世博士の生涯を辿ってみたいと思います。
野口博士は福島の会津に位置する猪苗代町に3人兄弟の2番目として生まれ,名を清作と名づけられました。1歳のとき母親が農作業をしている最中,赤ん坊だった清作は,いろりに落ち左手に大火傷を負ってしまいました。家庭は裕福でなかったため,医者に診てもらうことができず,指と指の間の皮膚がすべてくっついた状態になってしまいました。これが後に運命の分かれ道になろうとは誰が想像したでしょうか。
清作少年が勉学に励むようになったのにはいくつかの理由があったそうです。左手が自由に使えないため百姓になることができなかったこと,母シカに対する熱い愛情があったことといわれます。高等小学校に進学した清作少年は将来,教師になるという夢をもっていましたが,体育を教えることができないという理由で夢を打ち砕かれてしまいました。
その後,恩師である小林栄先生や友人の援助を受け会陽医院で左手の手術を受け,その時に清作少年は医学の素晴らしさを知りました。高等小学校卒業後,左手を手術した会陽医院に弟子入りし医学の道を志したそうです。
医学をもっと深く勉強したいと思った清作少年は,会津の地を離れることを決意しました。そのとき家の柱に彫った言葉,「志を得ざれば,再び此の地を踏まず」(目標を達成するまでは,会津には帰ってこない)を胸に東京へ旅立ちました。
上京した清作少年の目的は医師免許を取得することでした。現在でもそうですが,医師免許を取得するのは狭き門であるにもかかわらず,20歳という若さで合格したそうです。
名前を「清作」から「英世」に改名したのもこの頃でした。その頃『当世書生気質』という医学生を主人公にした本を読んだときに主人公の名前が「野々口精作」といい,自分との名前と,その主人公の短所が非常に似ていたそうです。その短所を直す意味も含め,「清作」から小林栄先生に改名を依頼し「英世」となりました。
「英」は小林家代々に伝わる由緒正しき言葉,「世」は世界の世,という意味で「英世」と名付けたそうです。
1900年,24歳のときに単身アメリカへ渡った英世は,ロックフェラー医学研究所で数々の研究成果をあげ,アメリカ・ヨーロッパなど,世界に名をなす人となりました。しかし,アフリカで黄熱病の研究中に感染し,51歳の若さで亡くなりました。
黄熱病はその後に開発された電子顕微鏡により発見され,治療法も見つかりました。また,医学書に記されている野口博士の業績は,多大な功績を残したのにも関わらず「スピロヘータの純粋培養」としか記されていません。しかし,人のために生き,人のために亡くなられた一生は医学書には載せきれないほどの業績だと思います。
数年前,猪苗代にある野口英世記念館を訪れた際,母シカが渡米した息子に宛てた手紙が展示してありました。シカは幼少時代から働いていたため,学校に行くことができず,字の読み書きができませんでした。そのため手紙の内容を見た瞬間,息子を想い必死で勉強したと強く思いました。
いつの時代でも子を想う親の気持ちは偉大だと改めて感じました。親子の間で信じられない事件が起こっている現代において,もう一度見習わなければならない親子関係かもしれません。
(Nissy)
■参考資料
野口英世記念館ホームページ http://www.noguchihideyo.or.jp/