生涯と作品

芹沢銈介は、明治28(1895)年静岡生まれ。今なお多くの人々を魅了しつづける、20世紀を代表する染色家です。昭和31(1956)年、「型絵染」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定され、国内外問わず高い評価を受けました。芸術に対する深い情熱は、自らの創作に留まらず、世界各地にわたる美術工芸品の収集にも注がれました。時代や場所を問わず、人びとの暮らしや信仰が息づく品々を愛好し、独自の審美眼で精力的に収集しました。

略歴

1895年 5月13日、静岡市葵区本通に生まれる。
1916年 東京高等工業学校(現・東京工業大学)工業図案科 卒業
1927年 柳宗悦著「工藝の道」に感銘を受け、生涯の転機となる。
1929年 国画会展に《紺地蔬菜文麻地壁掛》を出品。国画奨学賞を受賞。
1939年 翌年にかけて二度沖縄に渡り、紅型の技法を学ぶ。
1955年 有限会社芹沢染紙研究所 設立
1956年 「型絵染」で重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定される。
1976年 フランスの国立グラン・パレ美術館で芹沢銈介展が開催される。文化功労者となる。
1981年 静岡市立芹沢銈介美術館 開館
1984年 4月5日 逝去(享年88歳)

静岡時代 1895-1934

芹沢銈介は、明治28(1895)年、静岡有数の呉服太物卸商を営む大石角次郎の次男として生まれました。幼い頃から図画・工作を好み、中学にあがると水彩画クラブ「静中画会」を立ち上げ、雑誌『白樺』を愛読する美術好きな青年でした。胸中では画家を夢見ていましたが、隣家のもらい火により実家が全焼し、美術学校への進学は断念しました。その後叔父の援助もあり、東京高等工業学校(現・東京工業大学)工業図案科に進学。ここで図案や工芸意匠の基礎を学びました。
卒業後は地元の工業試験場や学校に職を得て、染色や漆器といった工芸品の図案指導に携わります。その一方で植物写生や油彩画に熱中し、近所の婦女子を集めて手芸グループを結成するなど、自ら表現したいという意欲はもち続けていました。こうした若き日の実践は、芹沢を染色の道へと近づけていきます。

染色家の道へ
昭和2(1927)年、友人と朝鮮旅行に向かう船内で、人生を決定づける出来事がありました。雑誌『大調和』に連載されていた思想家・柳宗悦の論文「工藝の道」を読み、「長年悩みつゝありし工藝に関する疑問氷解し、工藝の本道初めて眼前に拓けし思いあり」と語るほど深い感動を覚え、芹沢を染色の道へと強く導いたのです。さらに翌年、大礼記念国産振興東京博覧会(東京・上野公園)で、柳を中心とする民藝運動のグループが出品した「民藝館」を訪ねたときにも、大きな出会いがありました。建物内に展示されていた沖縄伝統の「紅型風呂敷(うちくい)」が目に留まり、「その模様、その色、その材料、こんな美しい楽しい染物以上の染物があるかと、夢のような思い」になるほど心を引かれ、この「紅型」に自らの染めの理想を見出したのです。
昭和4(1929)年には、第4回国画会展工芸部門に《紺地蔬菜文麻地壁掛》を出品し、初入選。故郷・静岡を拠点に、染色家としての第一歩を踏みだしました。

〈代表的な作品〉
この時期の作品は、ハンドバッグや座布団、テーブルセンター、布染の装幀本といった比較的小ぶりのものが制作されました。野菜や草花といった身近なモチーフ、幾何学模様などが落ち着いた調子で染められています。大型の作品には、寓話『イソップ物語』を主題にした《伊曾保物語四曲屏風》(1932)があります。また、柳宗悦の依頼を受けて取り組んだ雑誌『工藝』の装幀は、創刊号から12号までの1年間分を染めあげる大仕事でした。このような経験は、職人のように多くの量を堅実にこなすことになり、染めに対する心構えと技術の基礎固めとなりました。

《苺・茄子》
1930年
《伊曾保物語四曲屏風》
1932年
『工藝』創刊号
1931年
《福の字》
 1925年頃

東京・蒲田の工房 1934-1984

昭和9(1934)年3月、一家で東京へ転居し、大田区蒲田に自宅と工房を構えました。創作に集中できる環境が整い、さらに民藝運動との繋がりも強まったことで、活動の幅は広がっていきました。民藝運動の一員として参加した全国の工芸品調査では、芹沢自身も四国や東北へ足を運び、各地の風土に育まれた染織品、やきもの、編組品といった日常品(実用品)の美しさに触れます。生活と芸術が溶け合う日本各地の手仕事を知ることで、染色作家としての表現はますます深みを増していきました。昭和14(1939)年とその翌年には沖縄に行き、念願だった紅型の調査と技法習得の機会を得ました。
昭和20(1945)年4月、終戦目前に戦災で家財の一切を失う不運に遭いますが、戦後はすぐに仕事を再開。寄寓生活を送りながら、比較的手に入りやすかった和紙をつかって、カレンダー、うちわ、グリーティングカードなどを制作し、昭和30(1955)年には有限会社芹沢染紙研究所を開設しました。翌31(1956)年には重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定。円熟期を迎え、代表作を次々に発表していきました。
また芹沢は、蒐集家としても優れた眼をもっており、戦前の小絵馬収集を皮切りに、世界各国の美術工芸品を集めました。戦後だけでも6000点を数える膨大なコレクションは「もうひとつの創造」と称されています。

「型染」から「型絵染」へ
芹沢銈介は、昭和31(1956)年に「型絵染」の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されました。型絵染の名称は、認定に伴い新たに考案されたもので、「わが国の型染の特質をとらえ、その伝統に基づいて絵画的な文様を確立して特色がある」ことが評価されたためでした。芹沢は、これまで分業されていた型染の工程を一貫して自ら行い、またその巧みなデザイン力で動植物や文字、風景を模様化することで、新しい型染の世界を拓いたのです。

パリでの個展
昭和51(1976)年から翌年にかけて、国立グラン・パレ美術館で「Serizawa」展が開催されました。フランスの画家バルテュスや美術評論家(美術史家)のジャン・レマリーの後押しによって実現し、作品選定から陳列までの一切は、芹沢が指揮しました。会場の1/20スケール模型をつくるほど入念な準備を重ねながら、81歳の芹沢が並々ならぬ強い意志で挑んだ展覧会でした。パリ市内にはポスターが掲げられ、地元紙ル・モンドには「芹沢を人は染色家と呼ぶがそれのみで氏を位置づける事は出来ない。絵画、デッサン、挿絵はブラック、クレーに匹敵する」「この類い稀な染色物の位置を、マチスの切り絵とならべておくのは、あながち間違いとは言えまい」と高評価が掲載。日本人としては初めてとなる、このグラン・パレでの芹沢の個展には約4万人が来場し、大盛況のうちに閉幕しました。

〈代表的な作品〉
上京後は『わそめゑかたり』(1936)を筆頭に、合羽刷り絵本『絵本どんきほうて』などを制作。昭和18(1943)年には和紙に型染で染めた『益子日帰り』『かまばのひと』を発表し、以降は染紙による作品も多数手がけました。また東北・沖縄で出会った風景や職人たちの姿は作品の重要なモチーフとなり、《那覇大市図》(1939)や《東北窯めぐり六曲屛風》(1943)といった代表作を生みました。
戦後、とくに人間国宝の認定を受けてからは、屏風や着物、のれんの作品を次々と発表し、染色家として円熟期を迎えます。社会的名誉を得た一方で身辺も騒がしくなり、この頃から、仕事場として借りた鎌倉市津(津村)の家を行き来する生活を始めました。自然豊かな津村での暮らしは、「漁船文」や「津村小庵文」といった模様となって、芹沢作品を彩りました。《いろは文六曲屏風》(1958)や《御滝図のれん》(1962)、《鯛泳ぐ文着物》(1964)といった代表作もこの時期のものです。さらに大原美術館・工芸館の内装デザイン、知恩院御影堂のための荘厳布を制作するなど、創作の幅は広がりつづけ、最晩年には、インド・クシナガラの釈迦本堂のために《釈迦十大弟子尊像》(1983)を制作しました。

《那覇大市図》
1939年
《漁船文着物》
  1958年
《いろは文六曲屏風》
1958年
《釈迦十大弟子尊像》
1982年