2019/12/02 教育学研究科

【学生報告】地域調査特別研究の魅力

東北福祉大学大学院教育学研究科に所属する学生の活動を紹介します。

地域調査特別研究の授業として、一泊二日で山形県置賜地方に調査合宿に行きました。私たち学生は独自の課題を持ち、事前に下調べをして臨みました。私は、長井市に流れる野川の水利について、「長井市灌漑用水路の歴史と伝説(野川編)」というテーマで調べました。

野川には、「野川三堰」という伝説がありました。今から300年から400年前、野川を堰き止め、灌漑用の水路が三つ作られました。当時の代官は、どの水路にも平等に水を流すために、上流・中流・下流の野川の堰き止め方を工夫しました。そのなごりが、伝説として今なお残っています。
 
①一の堰(石止め)「栃の木堰」
手の平以上の大きさの石を積み重ねて堰き止める。(一番上流の水路なので、石の隙間から、下流に水が流れるようにする。)「栃の木堰」約340年前、手塚源右衛門が開いたと言われている。しかし、軟弱な土質でなかなか工事が進まなかった。右衛門の奉公人「おせき」は主人のため に「人柱」になった。という昔話が語り継がれている。

②二の堰(木の葉止め)「荒川堰」と「中村堰」
小さな石や草の根などで堰止めた(小さな石や草木で隙間を少なくした)。「荒川堰」約400年前、開発者の名をとり荒川堰となったと伝えられている。「中村堰」約380年前、飯豊町の梅津利左衛門とその子政右衛門が二代にわたって開発した水路。

③三の堰(むしろ止め)「木蓮堰」
積んだ石垣の前にむしろを張り、水を堰き止め、水路を作った。この下流には水路はなので、水を充分に堰き止められた。「木蓮堰」昔は小川であり、洪水を防止するために堤防を作ったのがこの水路のはじまり。

どの町にもある用水路は、ほとんどが江戸時代や明治時代に灌漑用として開発されました。工事が手作業であり、大変な苦労をしたと伝えられています。大けがをしたり、人が亡くなってしまったりしたこともあったようです。それが「人柱伝説」とか「昔話」として残っていることがあります。時には、その伝説が道徳的で、人の道を戒めるものだったりもします。上にあげた野川三堰もその一つのように思います。
 
(大脇賢次)

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